矢川原への想い ~樹の家づくりへの想いと人生の歩み~

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こんにちは。
株式会社矢川原の代表取締役社長の田中尚です。

2007年、私が30歳の時に先代より事業を継承して、8年が経過しました。
また、私自身が矢川原に入社してから数えると、15年が経過したことになります。
この15年間がむしゃらになってやってきました。

素晴らしい出会いに喜んだり‥
何か失敗して落ち込んだり‥

そんな日々ではありましたが、何より力を与えてくれたのは、
お客さまの喜んでいる姿やその笑顔、そして「ありがとう」の一言でした。

今後もそんなお客さまの笑顔に出会うために邁進していく所存です。

このページでは「矢川原への想い」と題して、私の経歴を綴らせていただきます。少々長くなりますが、このまま読み進めていただければ幸いです。

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昭和52年1月10日。

私は、現会長である父、常務である母のもと、3人姉弟の長男として、この歴史ある街、川越で生を受けました。

【修正】兄弟写真(左上)家族旅行子どもの頃は、人懐っこくて、誰にでもすぐ話しかけてしまうような性格で、よく外で遊ぶ活発な子だったと思います。

私には今一緒に働いている姉が二人いますが、姉弟で遊ぶ時は自然と活発であった上の姉(渡部)と遊ぶことが多く、当時インドア派であったもう一人の姉(吉田)を置いて行くと「ふたりだけで遊ぶんじゃない!」と父に怒られたことをよく覚えています。

社長であった父は、怒るとすごく怖いという印象で、仕事に忙しい毎日を過ごしていましたが、春・夏・冬の休みには、必ずどこかに連れて行ってくれる家族思いの人でした。

また、休みの日には当時始めたゴルフの練習に、私の帰宅を待って、よく一緒に連れて行ってもらいました。仕事も遊びも本当に一生懸命に取り組む人だったと思います。

2012_08060018そんなところを身近で見ていたからなのか、

やはり私にとって父は目標とする人の一人です。

私自身、今ではたまの休日は、登山やらカヌーやらと好きなことをして過ごしているのは、目標に近づいていると言えるのですかね~(笑)

 

~矢川原、そして職人たちとの出会い~

私は、矢川原が創業した後に、生まれました。
当然生まれたときから矢川原にとともに成長してきました。

私のアルバムの数ページ目には、
1歳に満たない私を抱く若かりし頃の大工がいます(笑)。

当時、毎年恒例であった、職人家族も含めた海水浴。
1月生まれの私は、生後6カ月で参加していたようです(汗)。

物心付いた頃には、そういった当たり前にある矢川原の行事を、毎年本当に楽しみしていました。

大工さんたちには、たっぷり遊んでもらい、かわいがってもらったのを今でも鮮明に覚えています。

そして、私が少し大きくなる頃には、大工さんの子どもたちも参加するようになりました。末っ子の私には、その全員が弟であり、妹のようで、今でも会えば気軽に話が出来る、私にとって大切な存在です。

こういった幼少期の影響もあり、自分より目上の人や歳下との関わりというものを、ここで自然に学んだように思います。

そんな家族の様な人たちと、一緒になって働いている自分はきっと幸せなんだなと改めて思っています。

「将来は大工さんになりたい!」

これは、私の小学校の時の文集の言葉です。

仕事に興味を持っていたかと問われると、微妙なのですが、海水浴以外にも会社の様々なレクリエーションに参加させてもらっている中で、笑顔でいる父や大工さんの姿に憧れを抱いていたのかもしれませんね。

 

~本当に建てたい住まいとは何なのか?~

高校は、地元川越の公立高校の普通科を卒業しています。

県立川越西高等学校。

杉林に囲まれた校舎は、花粉症の私にはきつい場所で、片道10キロを超える自転車通学は「大変だったなぁ」というのが懐かしい思い出です。

大学に進学するあたり、明確な将来像をイメージできていなかった私でしたが、身近にあった建築は多少興味もあり、大学では建築を専攻しました。

東洋大学工学部建築学科。

マンモス大学として、最近では箱根駅伝や野球などで有名になってきましたが、理系ということもあり、課題に追われる日々でした。

講義の内容は、鉄筋コンクリート造の美術館や学校などの大規模建築物についてが中心でした。木造、ましてや住宅という課題は少なかったかと思います。

ただ講義で、それらの建物にあまり魅かれていない自分がいることは感じていました。

そんな中、楽しいと思って取り組んだ課題が「自分が住みたいと思う住宅」でした。

当時、山ではなく海好きだった私は、少し興味を抱いていたスキューバーダイビングが出来る海の上に浮かぶ住宅を設計していました。

(※まあ、今思えば荒唐無稽も甚だしい出来ではありましたけど‥(笑))

自分が興味を抱いた課題とそうでない課題を比較して気付いたのは、そこに住む(使う)人の顔が見えるかどうかでした。

父が建築業界で戸建て住宅を建てていることは認識していたので、自然と比較していたのかもしれません。

「お客さまと接し、そこに住む人の為の住宅を建ててみたい!」という想いが、少しずつ芽生え始めた時だと思います。

 

そして矢川原へ‥ ~一級建築士への挑戦~

時代は就職氷河期に突入し、ご多分に漏れず私自身も、多くの会社の面接を受けるも内定を取ることもままならない中、ゼミの講師の紹介で中堅ゼネコンの現場監督として、働き始めることとなりました。

初めて取り組む仕事は、覚えることも多い上、二級建築士の試験にも挑戦していたことから体力的にも厳しい日々が続いていました。

約1年務めた頃、父が体調を崩したこともあり、
「ウチ(矢川原)に来ないか?」と社長であった父から誘いを受け、
随分と悩みましたが、最終的に退社し、矢川原へ入る決断をしました。

その決断自体は、現在では間違ってなかったと確信していますが、わずか1年で退社したことの後悔の念は未だにあります。

人を育てるということは、会社にとって投資です。
私はそれに報いることが出来なかったことになるからです。

ですが、決断した以上は、気持ちを新たに矢川原で役に立てるように頑張るしかありません。

そして、わずか1年であっても“外の釜の飯を食った”ということは自分にとって大きな経験になっていると感じています。大変な日々ではありましたが、それをやってきたことが自分の糧になっているからです。

矢川原への入社は平成12年の5月でした。

日々の業務は“なんでも屋”でしたね。
社長(現会長)に付いて動いたり、監督の指示を聞いて材料を運んだり、現場の掃除をしたりすることなどが主でした。

資格の勉強は、当然ながら同時にしていました。

入社の年に二級建築士の試験に無事合格。
その翌年には、宅建を取得することが出来ました。

そして、実務経験が2年に達した時に、一級建築士に挑戦することになりました。

二級に比べ、圧倒的に増えるその内容に、取得するに5年を要し、その合格を聞いた時の嬉しさは格別でした。そして、誰よりも父が喜んでくれたことが強く印象に残っています。それだけ、自分の事を案じてくれていたことを実感させてくれた出来事でした。

そして、この仕事と勉強の日々の中で、何度もあきらめかけた心を支えてくれたのが、一緒に一級建築士を志す仲間たちでした。

同業他社でもあり、本来ならライバルとなるはずなのに、お互いに教えあいながら切磋琢磨することが出来ました。我々の年代は資格学校の教員も驚くほど結束が強く、今でも情報を交換し合うことの出来る大切な仲間となっています。

この出会いは、私の人生にとって本当に宝物です。

 

地元を知る。安堵と喜び。 ~信頼をしていただくということ~

会社に入り数年が経過した時、営業の一人が退社し、それをきっかけに私は営業を主な仕事にすることになりました。

父はあまり細かな指示をするタイプでもなく、右も左もわからない営業という仕事で、私がまず行ったことは、お客さまへの挨拶廻りです。

お客さまの顔、自宅の場所や建物を覚えることを念頭に行動しました。

作成したチラシを自転車で配ることもよくやりました。そうする事で、近所のどこに何があるのかがよくわかるようになりました。この家のポストはこっちにあったよな! などということまでわかってきます。

それだけでは仕事が取れるようになるわけではありませんが、電話でお話をいただいた時に、お話の中の周辺状況を把握できたことは、この時の経験が役立っていたことを実感しています。

約1年、ほとんど仕事を取ることが出来ずに本当に悩みました。
親の会社でなければ辞表を出していたのではないかと思います。

ですので、最初にご成約いただけた時は本当に嬉しかったです!

その工事は一坪の増築工事でした。
大きな工事とは言えませんが…でも自分に頼んでくれたということが嬉しかったです。

その時の気持ちは今でも忘れられません。
恐らく一生忘れないでしょう!

また、正直安堵感もありました。
何よりご信頼いただけたお客さまへの感謝、それに尽きます。

まだまだ経験不足な私をご信頼いただき、任せていただきました。感謝、そしてその信頼に応えるための緊張感。

今なお、その緊張感は変わらずにお客さまに向き合っています。
当然、それは失くしてはいけない緊張感だと確信しているからです。

住まいづくりとは“一生に一度の大事業”です。

それをお任せいただくということは、お客さまが矢川原を、そして私、以下スタッフを信頼して下さったということに他ならないと信じております。

私に、矢川原スタッフにできることは、その信頼に応えるべくベストを尽くすことです。

 

社長就任 ~芽生えてきた覚悟~

私は30歳の時に、専務を経て社長に就任いたしました。
不況と言われる状況下での事業継承であり、仕事はとても厳しい状況が続いていました。

立場は変わっても、仕事内容にあまり変化はなく、基本的に営業が主な仕事になります。この頃、社長になったことで自分の気持ちには変化が生まれてきていました。お客さまは、今、目の前で話をしている私を通じて矢川原を見ています。そして、私を信頼し、大切な住まいづくりをお任せいただくのです。

お客さまの笑顔に触れるたびに感謝の気持ちでいっぱいになります。

そうした中で生まれてきたのが、

「お客さまを絶対に幸せにする!」という覚悟です。

決して、自分の為にではなく、何がお客さまにとって良い住まいとなるのか。

プロとして、出来ることを全てやる。
これが私に、矢川原にできる唯一のことであると考えています。

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歴史ある街川越で40数年、地域密着でやってきた私たち矢川原は山田地域を中心に、樹のぬくもりを感じ、そして末永く家族と共に歩んでいける、自分たちの夢やこだわりを叶える家をどうしたらカタチにできるかわからないと悩んでいる人たちのために、とことん親身になって相談にのり、“それぞれの想い”を重ねながら、時を経るごとに味わいを深める、裸足になってほっとするぬくもりある樹の住まいと、人生を楽しむ暮らしを提供することに生きがいを感じている工務店です。

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これは矢川原スタッフ全員の共通の想いです。

私たち矢川原は、住まいづくりだけなく、スタッフ全員の結束力を増し、私が大学の時に感じた「その人の為だけの住まいをつくりたい」という想いの元、矢川原の樹楽の家の住まいづくりを通じて、お客さま一人ひとりにとって、人生を楽しむ暮らしを提供できるように、一同、一心に努めております。

これからも株式会社矢川原をよろしくお願い申し上げます。

末筆ではございますが、皆さまの住まいづくりが安心で
幸せなものになりますよう、心からお祈り申し上げます。

代表取締役社長 田中 尚

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J-1【所属・役職】代表取締役社長
【名前】田中 尚(たなか ひさし)
【誕生日】1977年1月10日
【星座】やぎ座
【血液型】O型
【出身】埼玉県川越市
【入社年月日】2000年5月
【資格】一級建築士、宅地建物取引主任者、省エネ建築診断士、IAU免震設計資格者
【趣味・休日の過ごし方】

私の趣味は、たくさんありますね(笑)

登山、カメラ(風景写真)、カヤック、旅行、温泉巡り などなど。

登山では、八ヶ岳や南アルプスでは、天気にも恵まれて素晴らしい景色を見ることが出来ました。カヤックは屋久島への旅行の際に、その滑るように水面を進み、そこから眺める自然に魅了されました。それが高じて、自作のカヌー造りに挑戦。1年以上かけて遂に完成!それを持って、色々な場所に行きたいというのが目下の休日の目標です。

中々行けませんが、旅行も大好きで、ニュージーランドや屋久島は特に大自然を満喫できるのでたまらないですね。主にはアウトドアなことが好きなのですが、家やご近所のお店でお酒を嗜むことも実は大好きです(笑)

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