~矢川原の礎を語る~

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こんにちは、矢川原 会長の田中です。

これまでの人生は、本当に様々なことがありました。
ホームページをご覧の皆さまに少しでも、矢川原の礎を知っていただきたく
筆をとりました。少し長くはなりますが読み進めていただけたら幸いです。

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このまま会社勤めに終わってしまっていいのか

私は昔、矢川原を設立する以前は、
化学関係の大手の会社に勤めていました。

しかし、「このまま会社勤めに終わってしまっていいのか」
漠然と考えていました。

「なんとかして、もっと視野の広い仕事をして、自分自身の力を伸ばしたい」という
思いのもと、亡くなった私の親父が大工ということもあり、脱サラをして、畑違いの
建築業界に踏み出し、父や妻(現・常務)と一緒に会社を興したことが
今の矢川原の始まりです。

 

私の時代の大工といえば、16歳頃には既に修行を始めているもので、
20歳の頃には1人前の仕事をこなしているのが普通です。

しかし、私が当時、脱サラをしたのは20歳。

大工をやるなら、既に遅いと思われる年齢で、
将来への希望よりも、焦りを非常に感じていました。

当時住んでいた東京で、昼間は大工として仕事をしながら夜は夜間学校に通い、
その後も建築会社に就職して働きながら建築の資格をとるための勉強をする、
という日々が続きました。

「何がなんでも、皆に追いつきたい!」

その想いが私の原動力でした。

 

矢川原工務店誕生

しかし、その頃は東京では木造建築の仕事が減ってきていました。

私も親父も話しベタで、営業のセンスがあるわけではありませんでしたが、
どこかの工務店の下請けのままではなく、独立して仕事をできるようになりたいと
感じていました。

「このまま工務店の下働きで一生を終えたくない!」

という想いのもと、いっそのこと住まいも変え、
独立して会社を構えて残りの人生を送りたいと考え、
「東京から出て、頑張っていこう!」と親を説得しました。

そして、次の仕事場探しが始まりました。

私が出た高校は、JR池袋駅から出ている東武東上線にあります。

思い出が多くある、こちらの地域に呼び寄せられるように、
東武東上線の電車に乗りました。

特に当てがあるわけでもありませんでしたが、
「とにかく希望に向かうために頑張るんだ」という気持ちだけで電車に乗り込み、
たまたま途中下車した駅付近の不動産屋を当たりました。

不動産屋の方は、田んぼの真ん中にある、住まいを兼ねて事務所を
設けられる土地を勧めてくれました。すると親父が一言だけ・・・

「ここがいい!」

それから一家で東京から、この川越の地へ移ってきたのです。
当初2~3年は仕事という仕事はありませんでした。

【修正】矢川原本社(移転当時)練馬区の大泉学園にいた親類の会社で仕事を紹介してもらい
大工としての仕事をしていましたが、ある時、転機が訪れたのです。

知り合いの不動産屋が買った土地を建売で事業にしていくことになり、
経験のある私が相談にのり、アドバイスをしていくうちに、
仕事をいただけるようになりました。

親類縁者友達のいないこの川越で、
なんとか“矢川原工務店”として立ち上がったのが、この時です。

立ち上げ後、徐々に自分たちだけでも、仕事がいただけるようになりました。

 

時代に先駆けた“住宅展示場”と“現場見学会”

そんな頃、近所に支店を進出した大手ハウスメーカーの方から、
「ウチの仕事をやってみませんか?」とお誘いを受けたのです。

大手の会社と小さい工務店の仕事の違いや価値観の違いを感じていましたが、
私には「常に前に行きたい」という考えがあり、

「これからはただ単に仕事をしているだけでは、やっていけない」

そういった想いもあって、
大手ハウスメーカーの施工会社としても仕事をするようになりました。

その後、住宅展示場を使った営業ノウハウなどを勉強させていただきました。
当時はウチのような小さい規模の会社では、まだ住宅展示場を用いた
営業方法を知らない時代です。

土地を買い、住宅展示場として建て、
“現場見学会”を開催して、お客さまに来てもらう。

そして、納得してもらってご購入していただくという手法は、
当時の工務店としては珍しかったかもしれません。

徐々にですが、売上も上がり、職人さんの人数が増え、
会社組織として形になっていきました。

事務所をたくさんの職人さんが常に出入りする様子を、ご近所の方に見ていただき、
「矢川原さん、最近頑張っているね」と言っていただく機会も増え、
地域の皆さまから仕事を依頼していただけるようになったのです。

 

一番辛く、駆けずり回る日々

しかし、一方では大手ハウスメーカーの下請け会社としての仕事も数多くありました。

矢川原も成長し、元請けとしての売上も伸びきた今、
いずれは元請け一本でやっていきたいというかねてよりの想いから、
大手ハウスメーカーの仕事から撤退し、元請けとしての戸建て住宅の仕事一本に
専念することになりました。

売上は通常の半分以下になるほど失ってしまいました。

この時が一番辛かったです。
ひっきりなしに駆けずり回り、網戸の取替え1件から、
何から何まで引き受けていました。

しかし、駆けずり回っていたことが、功を奏します。

新たに仕事を紹介してくれる営業の方たちと出会い、
仲良くなったことをきっかけに、大きな仕事も年間5~6棟、
紹介してくれるようになったのです。

こういった人との繋がりがあり、売上が安定していき、会社の体制も整っていきました。

 

事業継承

様々なことがありましたが、そのような経緯を経て、私の息子である、
現・代表取締役社長の田中尚に引き継ぐことになりました。

実は、息子が会社を継がなければ、本当は閉めるつもりでいました。

幼いころから息子に矢川原を継げと言ったこともありません。

だから、息子が建築の大学に行くと言い、
私と同じ仕事に携わるとわかった時は本当に嬉しかったです。

卒業後は余所の建築会社に勤めていましたが、
その仕事ぶりは同業の私から見ても厳しく、体を壊すのではと気に病んでいました。
そんな折、私自身が一時体を患ったことをきっかけに、
「もし継ぐ気があるなら、矢川原でやらないか」と言いました。

まだ、私は60歳そこそこでしたが、どうせ譲るなら、思い切って早い方がいい、
早い段階なら、私もバックアップができると思ったからです。

会社のトップに立ち、自分の身以外の責任が伴うことは大変なことですから、
本人はかなり戸惑いがあったようですが、

「いくらでも俺は助けてやるから! やるなら早い方がいい!」

そういった想いも通じて、息子は決断に至ったのだと思います。

結果として、私の考えは間違ってはいなかったと確信しています。

 

“経営者”としての息子とスタッフにむけて

息子の考え方もめまぐるしく変わってきました。

当たり前ですが、親の私は昔から息子のことを見てきています。

昔はおっとりした性格の子だったと妻(常務)も言いますが、
経営に携わり責任を負うことを通じて、何事にも細かいところまで感じとれる
人間になったのだと思います。

厳しい情勢の世の中ではありますが、これからもたくましく
地域のお客さまのために頑張っていって欲しいです。

仕事とプライベートを両立できるように、どちらも頑張ってもらえたらなと願っています。

また、娘たち(渡部、吉田)には社長をこれからもしっかりとサポートし続けて欲しいです。
27歳の頃からずっと矢川原のスタッフとして支え、仕事に真面目に取り組む野島にも、
これからも矢川原の力になって欲しいと思っています。

 

社長、野島、恵(吉田)、香(渡部)で、
“新しい矢川原”をつくってくれることを願って‥

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 >>矢川原への想い